★ACIM(奇跡講座、奇跡のコース)が生まれたきっかけ
ACIMは、ヘレン・シャックマンとウィリアム(ビル)・セットフォードによって、1975年にまとめ上げられました。
ヘレンがイエス(キリスト)から受け取った言葉をビルがタイプするという共同作業によって作られたものです。
ヘレンも、ビルもコロンビア大学の心理学者で、共に心理学科教授であり、しかもヘレンは非常に戦闘的な無神論者で、研究や測定や評価が不可能な曖昧模糊とした考え方のすべてを否定していた人でした。
つまり、特定の宗教的観念の世界にいなかった人たちによって、まとめあげられたものと言えます。
そのため、キリスト教的用語は多用されていますが、キリスト教に限定したものではなく、特定の宗教に属するものではありません。
★ACIM(奇跡講座、奇跡のコース)の構成
ACIMは、「テキスト」「受講生のためのワークブック」「教師のためのマニュアル」の3部で構成されています。
テキストはこの中で最も難しいと言われており、ACIMの基盤となる理論を31章に分けて解説しています。
受講生のためのワークブックは365のレッスンから構成されており、1日1つのレッスンを行いながら、テキストの内容を日々の生活の中で、実践・応用していくものとなっています。
教師のためのマニュアルは、質問に対する答えの形になっていて、ACIMに出てくる多くの原理を要約したようなものです。
学びを進める順序は、個人の自由です。
ただ、ワークブックから始めて、ある程度学習が進んでから、テキストを読み始めてもいいのかもしれません。
テキストはあまりにも量が多い上に、学習が進んでいないうちは、わからないことばかり過ぎて、投げ出したくなってしまうことがあるかもしれません。
ワークブックでレッスンがある程度進んでいると、テキストの内容は、まるでキリストからの優しい呼びかけのように感じられ、テキストを読むことさえも喜びとなるように感じることでしょう。
また、ワークブックとテキストは、訳者が同じものを用いた方が理解しやすくなります。同じ訳者の本であれば、使われる言い回しや表現に統一感があるので、混乱せずに済むでしょう。
★ACIMはキリスト教限定ではない。特定の宗教ではなく、新しい教派でもない。
「講座」は、社会活動や宗教ではなく、新しい教派でもありません。
むしろ一つの思考体系と呼ぶべきでしょう。
(奇跡講座入門、中央アート出版、40ページより引用)
仏教やヒンズー教などにおける聖人の語っている言葉の中にも、このACIMと似ている世界観を伝えている箇所がたくさんあります。
つまり、ACIMの根底にあるのは、この真実の世界における真理であって、すべての宗教が目指している真理を表現しているともいえます。
実際に、厳格なキリスト教徒にとっては、ACIMの概念は「仏教的」であるという評価を受けているとも聞きます。
このように、ACIMは、特定の宗教を勧めるものではなく、特定の宗教を否定するものでもなく、真理へ至るための思考体系と考えるべきだと思われます。
★ACIMだけが真理へ至る道ではない。
本書は一つの特別なカリキュラムのためのマニュアルであり、
普遍なるコースの特別な形態の一つを教える教師を対象としている。
他にも幾千もの形態があり、それらすべてが同じ結果をもたらす。
(奇跡講座マニュアル編、中央アート出版、44ページ、M-1.4.1-2を引用)
ACIMは確かに、真理へ至る道として、智識を経験として感じ取ることで、自我の信念体系から真理の信念体系へと変換していくことを体験していくプログラムです。
それだけに、「これ以外はダメだ」という特別な思い込み・特別な関係をACIMとの間に作ってしまいがちなのですが、これもまた、ACIMでいうところの「特別な関係」、仏教でいうところの執着であり、自我の抵抗の一つの形と言えます。
ですから、ACIM以外の様々な方法があって、それぞれ真理へ至る道であり、その人にとって最適の方法を用いればいいだけのことです。
★ACIMの中心人物はキリストと聖霊
誰かがACIMについて深い理解をしていて、その誰かにあなたがどのように感銘を受けたとしても、その誰かとの間に特別な関係を作ってしまうことは、ACIMの学習にとって妨げとなります。
ヘレンは、ACIMの中心人物はキリストか聖霊であると感じており、そのように理解されるべきだと思っていました。
キリストからACIMを受け取ったヘレンが感じたことですから、それがACIMの理解に最も適した考え方であろうと思われます。
★ACIMは独習書でありながら、その学びには常に他人を必要とする
ACIMのワークブックは1日1レッスンを365日続けていく形になっています。
制限されているのは、1日に1レッスンを超えて行わないということだけであり、同じレッスンを数日かけて行ってもいいし、前のレッスンに戻ってもいいし、お休み期間を自分で判断して設けてもいいということになります。
実際、真面目にレッスンを行っていくと、途中で自我の激しい抵抗にあうことが多く、そのときには、レッスンをお休みしたくなります。
このようなときにレッスンをお休みしてもいいのですが、このようなときこそ、レッスンを前へ進めていくことが、その苦しみから抜け出す近道となることも多いです。
また、レッスンの結果、感じることや、理解できることは、人それぞれなので、感じたすべて、理解したすべてがその人にとっての正解であると思います。
なぜならば、私たちはそれぞれがそれぞれの自我と強い一体感を持っていますが、その自我の与える信念体系は、人によって異なり、表現も感じ方も全く異なるので、唯一絶対の正解という感じ方がないからです。
ですから、レッスンを行っていく上で感じたことは、あなたにとってのレッスンの結果であり、他人と比較して「間違っている」「正しい」という評価(ジャッジ)を行うことは、適切とはいえないでしょう。
これが、ACIMが独習書であると言われるゆえんです。
しかし、私たちの自我は、自分の内側を他人に反映して見ています。
ですから、他人を通してしか、自分を知ることができません。
他人を通してしか、気付くことも、学ぶことも、できません。
ですから、ACIMは独習書でありながら、常に誰かと共に学びを深めていくものであるとも言えるのです。
そして、共に学び、その経験を共有(シェア)することで、学びをより深く、より早くしていくことができるのです。
そのために、仲間の存在が大切になってきます。
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